『断腸亭日乗』の当日の記録を見る。克明な描写で大迫力である。ただ『日乗』のこの数日間の記録は多分に創作性が高い(ウソが入っている)との指摘もある。たしかに別の証言と食い違う部分がある。松本哉氏は『荷風極楽』のなかで詳しく述べられている。複雑な家庭の事情が荷風をしてウソを書かせたというのだ。果たしてどうか。
まず荷風の『日乗』の記載から:
九月朔。コツ爽雨やみしが風なお烈し。空折々掻き曇りて細雨けむりの来るが如し。日将に午ならむとする時天地惣鳴動す。予書架の下に座し□□□遺草を読みいたりしが、架上の書帙頭上に落ち来たるに驚き、立って窓を開く。門外塵煙濛々殆□尺を弁ぜず。児女鶏犬の声頗なり。(中略)数分間にしてまた震動す。身体の動揺さながら船上に立つが如し。(中略)物凄く曇りたる空は夕に至り次第に晴れ、半輪の月出でたり。ホテルにて夕餉をなし、愛宕山に登り市中の火を観望す。十時過江戸見坂を上家に帰らむとするに、赤坂溜池の火は既に葵橋に及べり。(中略)葵橋の火は霊南坂を上り、大村伯爵家の隣地にてやむ。吾廬を去ること僅に一町ほどなり。
翌日の二日と続く三日は特に何もなし。余震が続くので荷風は屋内には入らず夜は庭で「露宿」したと書いています。この辺は大迫力の描写なのですが、問題はこの後・・・。
9月4日。コツ爽(朝早くという意味)家を出で青山権田原を過ぎ、西大久保の母上を訪ふ。近巷平安無事常日の如し。下谷鷲津氏の一家上野博覧会自治館跡の建物に避難すると聞き、徒歩して上野公園に赴き、所々尋歩みしが見あたらず、むなしく大久保にもどりし時は夜も九時過ぎなり。披露して一宿す。この日はじめて威三郎の妻を見る。威三郎とは大正三年以後義絶の間柄なれば、その妻子と言語を交わることは予の甚快しとなさざる所なれど、非常の際なれば已む事を得ざりしなり。
この記述について、松本哉氏の指摘は(『荷風極楽』):
- 荷風は日記で西大久保には一泊しただけだと言っているが、実際は数泊した。
- 下谷には四日の日に行ったと荷風は言うが、実際は五日に行った。
- 下谷に行くのに威三郎の妻が荷風に同行したがこれは書いてない。
- おまけに荷風は道中朝鮮人と間違われ危うく殺されるところだったのを威三郎の妻が何とか取りなした。また彼女は最後は歩けなくなった荷風を背負って帰ったのに、それも何にも書いてない。
松本哉氏は威三郎のご子息皐太郎と面談されて皐太郎氏の母上からの話としてお聞きになったとのことで、こういう省略をする荷風はあまりに冷たいではないかというもの。
まああまり格好のいい話じゃないので荷風も敢えて触れなかったのでしょう。分からないでもないです。
威三郎の奥さんの話によれば、四日の日、荷風は朝九時頃に西大久保の家に來て門を叩いたが、警戒されて誰も門を開けなかったので、荷風は午後の四時頃まで門を叩き続け、やっと中に入れたとの事(早朝麻布を出れば当然九時には西大久保に着きます)。小生としては夕方まで家に入れて貰えなかった荷風の方が可哀想だと思うけど、まあいろいろ人にはそれぞれの立場があるから仕方がないか。
ちなみにこの話は秋庭太郎の『考證永井荷風』にもっと詳しく、威三郎やその奥さんから直接聞いた話もまじえて記述があります。秋庭太郎は荷風と威三郎家の話の矛盾については淡々と記述するのみで軍配をどちらにも上げていません。でも松本哉は『考證永井荷風』の名前には触れてはいるものの「永井皐太郎の名前が川門清明となっていたりして、そのままでは引用できるものではない」と不採用とされています。
ところでこの川門清明とは誰だろう。永井皐太郎は歌人でもあるようですが、俳人に川門清明という人がいる。ひょっとして同一人物であるのかも知れない・・・。秋庭太郎が書くんだから、単なる間違いではなくなんか理由があると思うんですが、まだ分かりません。
荷風と月。荷風は大震災に当たっても月を眺めています。半輪の月といってますが、さっそく「こよみのページ」で当時の月を調べてみました。1923年9月1日の月は、月齢19.7日、月の出21時29分でした。若干誤差はありますが、おおむね荷風の描写は正確です。
(初出:2004.9.1)
荷風が大好きだった松本哉氏はもう亡くなられた。合掌。
これだけの大災害を出した東京だが、復興に当たって防災対策はほとんどとられなかった(お金がモッタイナイという理由で)。その後再び戦災という大災害にあったが、同じく防災対策は何もとられなかった(同じくお金がモッタイナイと言う理由から)。戦後、地方には空前絶後のバラマキがなされ、巨額の無駄な公共投資が浪費されたが、東京の防災対策はなかったに等しい。安全都市として東京は欧米諸国の首都と比べてもさらに北京などと比べても張るかに見劣りがする。いまだに日本にはイナカ主権主義が蔓延っているからだ。東京に大地震が起こればまた同じことが繰り返される。
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